今は昔?中ソ対立の一断面

さらに中ソ対立はすでに両国国民の個々の感情にまで浸透している。

中国とロシアの歴史において、両国が友好的であった歴史はほとんどない。モスクワと北京で観察したところでは、ロシア人はもともと中国人を嫌いだし、またその逆も真実である。ちなみに、モスクワ及び北京在勤の経験を通じて私の感じたところでは、ロシア人も中国人も、政府がアメリカと敵対関係にあったときでも、つねにアメリカ人に対しては一種のあこがれのような気持に裏打ちされた好意を持っており、これが米ソのデタント(緊張緩和)、米中接近の一つの背景であったと思われる。国境問題、モンゴル問題など中ソ対立の伝統的要因は、中ソ対立を深刻にする要因であっても直接の原因ではない。

最後に、中国がかつて一貫してフルシチョフの「平和共存外交」を非難しつつ、他方において「米帝国主義」の攻撃をあれほどやったのは、米ソ接近を阻止しようというところに目的があったからではないかと考えられる。スターリン批判、平和共存政策に毛沢東が批判的であったのは、このような政策の中にフルシチョフの対米接近の意図を読みとったからではないだろうか。他方ソ連から見れば、中国は米ソを衝突させ核戦争をたきつける政策を採りながら、自らは消極的な待機の戦術を採っているという疑いのまなざしで中国を見ていた。このように考えてみると、中ソ対立の外的要因はいろいろあろうが、それを決定的にしたのは対米考慮、別な言葉で言えば中ソそれぞれの安全保障上の考慮であったのではないかとも思われる。

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丹波實著『日露外交秘話』中央公論新社、2004年。第五章「モスクワと北京に勤めて」より。

外務省で主に対中・対ソ(露)外交畑を歩んだ丹波氏と云えば、1990年代初め、PKO法案で国会がもめていた頃、外務省条約局長として国会答弁によく出ていました。野党席からのヤジで騒然とした議場に、氏独特のカン高い声がよく響いていたのを思い出します。