ファーイースタン・エコノミック・レビュー

非常に残念なニュースです。

朝鮮半島・中国関係の報道では随分お世話になりました。

特に朝鮮問題では秀逸な視点からの内幕をえぐる記事が多かったと思います。

http://www.feer.com/

時事通信世界週報の廃刊の時もそう思いましたが、それなりに長く続いて来た情報誌はなくなる一方なのだろうか。インターネット時代、これから同じような雑誌が生まれてくることはもうないのだろうか。

以下、産経ニュースより。

http://sankei.jp.msn.com/world/asia/...

------------------------------------------------------------------

骨太の高級総合誌 資本の論理に勝てず DJ傘下のFEER廃刊へ

2009.10.8 00:23

 アジアの実相を伝える必読誌として名をはせたファーイースタン・エコノミック・レビュー(FEER)が12月で廃刊になる。権力に敢然と立ち向かうその姿勢はジャーナリズムの鑑とされた。しかし、ダウ・ジョーンズ(DJ)が経営権を握って以来、編集方針の変更などから輝きを失っていた。巨大メディアの資本の論理に翻弄(ほんろう)された末の寂しい退場である。

 「数度にわたり活性化を試みたが、広告収入と読者の減少が続き、もはや持ちこたえられない」。DJは先月、「熟慮の末の困難な決断」としてFEERの廃刊を宣言した。これを伝えた英エコノミスト誌は「記者の能力や政治・経済の分析ゆえに、とりわけ独裁者や大物経済人を立腹させることで畏(い)敬(けい)された」と回顧した。

 FEERの発刊は1946年にさかのぼる。創業者はオーストリア出身の亡命ユダヤ人で、週刊のFEERを香港で旗揚げした。誌名に「エコノミック」とあるが、政治報道にも強かった。ベトナム戦争や中国の文化大革命では事実に基づく批判的な報道を展開し、誌価を高めた。第4代編集長のフィリップ・バウリング氏は「65年からの25年間が黄金期だった」と振り返る。

 FEERの強みは自前の強力な特派員網にあった。90年代初めまでにはアジア各国や米国などに20人以上の特派員を配置、通信社を除けば最強のアジア報道体制を擁した。シンガポールなどの強権国家とも切り結ぶその姿勢から、訴訟や発禁処分、記者の投獄など向こう傷も絶えなかった。

「とてもわくわくさせるような職場」(バウリング氏)は多くの人材を輩出した。日米関係などに健筆を振るった粟野原奨氏はその一人だ。インド出身のナヤン・チャンダ氏も花形記者の一人だった。ベトナム戦争から中越戦争までインドシナ情勢を一貫して追い続け、その蓄積はインドシナ現代史のバイブルともいうべき名著「ブラザー・エネミー」となって結実した。

 FEERの隆盛は第3代編集長のデレク・デイビス氏の存在なしには語れない。64年から25年にわたり采配を振るい、高級総合雑誌としての名声と経営基盤を確立した。

 もともとは英国の外交官だったデイビス氏は任地のウィーンでピアノを学んでいた日本人女性と知り合い、結婚を決意する。しかし当時、英国の外交官は日本人との結婚を禁止されていた。このため氏は外務省を退職、FEERに加わった。後に妻となるこの女性との出合いがなければ、FEERの黄金期もなかったかもしれない。

 97年にはFEERは世界的な特報をものにした。ネイト・セイヤー記者によるポル・ポト氏の「発見」と単独会見である。カンボジアでの大虐殺の張本人とされるポト氏はそれまで20年近く生死さえ不明だった。しかし今にして思えば、これはFEERの最後の輝きだった。

 87年に経営権を完全に握ったDJの下で、ビジネス報道を重視し、読者に迎合するような内容へと変質、持ち前の牙が失われた。10年近く前に筆者がナヤン・チャンダ氏に会った際、「深掘りの政治記事を書くスペースが大幅に減ってしまった」と嘆いていたのを思いだす。

 経済報道主体への転換はアジア経済危機とITバブル崩壊の直撃を受けることになった。広告収入の落ち込みに伴い、DJは2001年にFEERと傘下のエイシアン・ウォールストリート・ジャーナル(AWJ)の編集部を統合、FEERの人員は大幅に縮小された。

 04年にDJはもっと大胆な合理化を断行する。FEERを月刊にし、学者や政治家などの外部寄稿家による論文集へと雑誌の性格をがらりと変えたのだ。FEERの名前こそ残ったが、この時点でFEERは死んだも同然だった。

 DJは先月のFEER廃刊の発表に際し、AWJなど傘下の他の媒体に経営資源を集中するための措置だと強調した。DJは現在はメディア界の帝王、ルパート・マードック氏率いるニューズ・コーポレーションの支配下にある。かつての名雑誌も巨大メディア帝国にとっては経営上の単なる捨て駒でしかなかった。(在バンコク・ジャーナリスト 鈴木真